ヘンリー・フール三部作、他
ShortCuts編集部
POSSIBLE FILMS, LCC
【インタビュー】クラウドファンディング応援緊急上映会直前! ハル・ハートリー、ロングインタビュー
「ヘンリー・フール三部作」BOXセットに日本語字幕をつけてリリースしたいというハル・ハートリーのクラウドファンディングも7月13日の〆切が迫って大詰め。「クラウドファンディングが成功すればBOXセットに新作ドキュメンタリー「Where To Land」も収録します!」とハートリー本人が新たな話題を投下する中、ハートリー作品上映会を開催するShortCutsも負けじとハートリーのロングインタビューを公開します。三部作のこと、ジム・ジャームッシュやタランティーノのこと、初期作品のミューズだった故エイドリアン・シェリーのことなど珍しい話題も多い貴重な語り下ろしです!
2017.7.05
『ヘンリー・フール』を三部作にするつもりはなかった
――『ヘンリー・フール』(1997)以降、一度映画作りをやめてしまったそうですが、なぜまた映画に戻る気になったんでしょう?
ハートリー あの時はとにかく映画作りから離れたかったんだけど、いつか映画に戻ってくるだろうってことは自分でもわかってはいたんだ。僕ができる唯一の得意なことだからね。僕の初期の作品はどれも、恋に落ちた若者たちを主人公にしたメロドラマだった。最近は、腐敗した社会の中で葛藤する善人を描くことが中心になっていると思う。今も昔も道半ばな主人公を描くのが好きなのは変わってないけどね。
――それは、以前よりも社会や世界情勢に興味を持つようになった、ということでしょうか?
ハートリー そうだね。もっと意識的に描くようになったよ。とはいえ世界情勢のことはずっと気にかけていた。特に1998年からは、社会そのものに行く手を遮られたり、立ち向かったりするキャラクターを描くようになった。
――1998年というと、現代のNYに現れたキリストが葛藤する『ブック・オブ・ライフ』からでしょうか。
ハートリー うん。でも、くっきりとした境目があるわけじゃないんだ。『ヘンリー・フール』でも現実世界における政治や文化ビジネスのトリッキーな側面についても触れていたしね。
――『ヘンリー・フール』はあなたが続編を作った唯一の作品です。しかも2回も。あなたにとって特別な作品だったのでしょうか? なぜ、そしていつ三部作になると思ったんでしょうか。
ハートリー 『ヘンリー・フール』を作った時にはシリーズにするつもりはなかった。3年くらい後になって、僕はまたパーカー・ポージーと映画を撮りたいと思ったんだけど、僕も彼女もフェイのキャラクターをすごく気に入っていて、フェイを主人公にした映画を作ろうと決めたんだ。その頃の僕は、9/11以降のおかしくなってしまった世の中についても語ろうとしていて、その二つの要素が組み合わさった結果が『フェイ・グリム』(2006)だね。その時には、パート2を作るならパート3も作るだろうと考えていた。そして3作目はヘンリーとフェイの息子ネッドの話になるだろうとね。ネッド役の子役だったリーアム・エイケン(『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』)が成長して役者を目指してくれたことはラッキーだったね。
――もしリーアムが役者の道に進んでいなければ、3作目では演じる俳優が変わっていた?
ハートリー たぶん新しい誰かをキャスティングにしないといけなかっただろうね。でもリーアムとは一年に一度は会っていて、彼の成長も見守っていた。その頃には確か21歳になっていて、プロの俳優を志していたんだ。
――『ヘンリー・フール』のラストシーンで、ヘンリーはヨーロッパ行きの飛行機に向かって、自分の原稿を抱えて全力疾走します。今にしてみると、あなたが2000年代に一時期ヨーロッパに拠点を移すことを暗示していたようにも思えますが、ただの偶然でしょうか?
ハートリー うん、それはただの偶然だよ。あの頃の僕は、とにかく映画作りから離れて、新婚だった二階堂美穂とニューヨークで暮らしたいとばかり考えていたからね。
――どうして3作目のタイトルを『ネッド・ライフル』(2014)にしたのですか? ネッド・ライフルといえば長らくあなたのミュージシャン名でしたよね。ヘンリーとフェイの息子もネッドという名前だったわけですが、『ヘンリー・フール』の時からネッドを自分の分身のように思ってましたか?
ハートリー いいや。でも『フェイ・グリム』を書いた時に、3作目のタイトルは「ネッド・フール」でも「ネッド・グリム」でもなく、まったく新しい名前になるべきだと思ったんだ。
――「ネッド・ライフル」という名前をタイトルに選んだことにはどんな意味がありましたか?
ハートリー 結果的に、僕にとって一番パーソナルな作品になったよ。ネッドが持つ二面性、地に足を付けた人間でありながら、暴力的で反動的な思想家という特質は、僕自身のことでもあるなと思いながら脚本を書いていた。
――『シンプルメン』(1992)でも“父親”のキャラクターは過激な社会活動家でした。その頃からあなたの二面性は作品に反映されていたのでは?
ハートリー そうかも知れない。僕は昔からラジカルな活動家たちの大ファンなんだけど、自分自身は暴力ってものにまったく耐えられない人間なんだよね。
――ある時期からネッド・ライフルという変名を使わなくなったのは何故ですか?
ハートリー ようやく自分の作る音楽に自信が持てるようになったんだよ!
――そもそもネッド・ライフルという名前はどこから思いついたんでしょうか。
ハートリー ネッド・ライフルは、学生時代に作文の授業のために生み出したキャラクターだったんだ。どの課題にもいつも同じキャラクターを登場させていた。同じ時期に西洋の映画史を学ぶ授業も取っていて、その授業のどこかにも彼が生まれる着想があったんだと思う。
――『ネッド・ライフル』にはマーティン・ドノヴァン、ロバート・バーク、ビル・セイジにカレン・サイラスまで出演していて、まるであなたのチームが再結成したみたいなキャスティングですね。
ハートリー 『ネッド・ライフル』は僕が30年間にわたってフィルムメーカーやストーリーテラーとして興味を持ってきたことの集大成なんだ。だから最初から一緒にやってきた人たちに関わってもらうのは、すごく自然な選択だったし、僕にとって大きな意味があったよ。
――『フェイ・グリム』は『ヘンリー・フール』とはまったく違うジャンルの作品です。体裁としては世界を股にかけたスパイ映画になっている。スパイ映画を一度やってみたいという気持ちがあったんでしょうか? それともジャンルはあくまでも描きたいテーマのためのツールだったのでしょうか。
ハートリー 僕の狙いは、2006年の時点での、最も平均的なアメリカ人像と世界の在り方について描くことだった。フェイのように善良あり、でも世界の情報に目を向けることがない一般市民を主人公にしてね。そのためにグリム一家を利用したとも言えるだろうね。
タランティーノは『トラスト・ミー』を40回観たって言ってたよ!
――90年代に、あなたはNYインディーズの映画作家として扱われていました。ほかのインディーズ作家との仲間意識や友情関係はありましたか?
ハートリー 僕は80年後期から映画作りを始めたから、ニック・ゴメス(短編「Theory of Achievement」に出演)やケリー・ライヒャルト(『アンビリーバブル・トゥルース』に出演)は同期という感じだね。映画祭でほかのインディーズのフィルムメーカーに会う機会はあったけど、唯一友人として親しくなったのはジム・ジャームッシュ。ニューヨーク市の同じ界隈に住んでいて、よく顔を合わせていた。共通の友人もいたしね。クエンティン・タランティーノとは一度トロントの映画祭で会ったんだけど、『レザボア・ドッグス』(1992)を撮る前に僕の『トラスト・ミー』(1990)を40回観たって話してくれたよ!
――90年代の始め、あなたはNYのインディーズシーンのポスト・ジム・ジャームッシュ的存在として認知されていました。ジャームッシュの作品ついてはどう思われますか?
ハートリー 僕は彼の映画が好きだったし、今でも好きだ。でもやっていることは違っていたと思う。彼の映画はとても文学的で、実際に大学でも文学を学んでいたと思うけど、決して言葉が中心の作品ではなかったよね。彼は空間や時間をゆったり使うのが好きで、優れた観察者でもある。僕の映画はというと彼よりもビートが速くて、もっとノイズだらけだったね。
――『No Such Thing』(2001年/サラ・ポーリー主演)はまだ日本で観ることができないあなたの監督作の一本ですが、メジャースタジオとの仕事でありながら興行的なヒット作とはなりませんでした。あなたのキャリアにどんな影響がありましたか?
ハートリー 『No Such Thing』は製作費で言えば決して大作じゃないけれど、ユナイテッド・アーティスツのために作られた作品で、当時のUAはアートフィルムをどうやって売ったらいいのか誰一人わかっていない会社だった。それに彼らは、2001年の同時多発テロの後では挑発的過ぎる内容だと考えて、一年間オクラ入りにして、ほとんど売る努力もしなかった。その間に経営陣も2、3回まるごと入れ替わったし、作品を理解しようだとか観客のことを考えてくれようとはしてくれなかった。それに関してイライラさせられたけど、別に僕のキャリアを傷つけたわけじゃない。いいギャラももらえたしね。それに僕自身がいろんな違うやり方を模索していた時期で、演劇のプロジェクトや『The Girl From Monday』(2005)みたいなさらに実験的なプロジェクトに手を付けていたから、立ち止まったりもしなかった。
――最近、刺激を受けているフィルムメーカーはいますか?
ハートリー テレンス・マリックは今でも刺激をくれる映画監督のひとりだね。デヴィッド・リンチの新しい「ツイン・ピークス The Return」にも感銘を受けた。あと70年代、80年代にデニス・ポッターが手掛けたイギリスのテレビショーが大好きで、随分前から見まくっているんだ。
――Amazonの青春ドラマシリーズ「レッド・オークス」のシーズン1で、あなたが監督したエピソードでジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンドの「ヴォイス・オブ・アメリカズ・サンズ」(シルヴェスター・スタローン主演映画『コブラ』の主題歌に起用された曲)が流れた時は驚愕しました。インディーロック好みのあなたからは対極にある音楽ジャンルな気がしたので。
ハートリー 「レッド・オークス」には僕も会ったことのない専任の選曲スタッフがいるんだ。実際、あの作品では僕は雇われ監督の立場だしね。 それにグレッグ(グレゴリー・ジェイコブズ、「レッド・オークス」のクリエイターで『マジック・マイクXXL』等の監督)は、ちゃんと自分が描きたいもの、観たいもの、聴きたいものがわかってるからそこはお任せだね。
――「レッド・オークス」は参加している監督の顔ぶれも面白いですよね。まるで80年代、90年代、00年代のインディーズ界の名士が集合したみたいです。
ハートリー 「レッド・オークス」のクリエイティブチームは、僕に「アート作品を作るわけじゃないからな!」って念押ししていたよ。僕はそれで構わないって答えたんだけど、シーズン2が終わった時に「君のおかげでずいぶんアート色が加わったね」って言われたな(笑)。
エイドリアン・シェリーは自分の見た目に甘えたりはしなかった
――あなたの作品の常連だった女優エイドリアン・シェリーが、2006年に悲劇的な死を遂げました。彼女について話してもらってもいいでしょうか?
ハートリー 彼女はいつも一生懸命で、大望を抱いていて、とても優しい人だった。初めてアメリカにやってきた(二階堂)美穂にスーパーでの買い物の仕方を教えてくれたのも彼女だった。自分の外見的な魅力を楽しんでいて、でも、決してそこに甘えたりはしなかった。そして娘のソフィーのことをとても愛していたよ。
――彼女が監督した『ウェイトレス 〜おいしい人生のつくりかた』(2007)はご覧になりましたか? どことなくあなたの影響も感じさせる素敵な作品でしたが。
ハートリー あの映画は2度観たし、脚本の草稿は何回も読んでいた。彼女は通りを挟んだすぐ近所に住んでいて、よく脚本や企画の話をしていたんだ。あの作品は彼女自身も自分のベストの脚本だとは思っていなかったけれど、一番マーケティングの可能性がある内容だった。彼女に意見を求められた時には、どの作品でもいいからその時点で出資が得られるものをやるべきだと答えたよ。そして出資者が一番気に入った企画が『ウェイトレス』だった。僕も彼女も、あの映画を作ることが、彼女が強い思い入れを持っていた他の企画の実現に役立つだろうと思っていた。
――あなたは、彼女が生きていたら名監督として活躍すると思っていましたか?
ハートリー そうだね。彼女は『ウェイトレス』の前にも2本の長編を撮っていて、僕は2作目の『I’ll Take You There』(1999)が一番力強い作品だったと思ってる。とてもパーソナルな内容で、それでいて感傷に溺れることがないいい作品だよ。
――最後に今回のクラウドファンディングについて日本のファンにメッセージをもらえますか?
ハートリー 日本のファンが僕の映画を愛してくれていることを、ずっと嬉しく思ってきました。僕が作家として成長したり変化したりした時も、日本のみなさんは興味を持ってくれました。でも映画ビジネスは様変わりして、より保守的になってしまった。僕の映画も、以前のような形ではお届けすることができていません。でもインターネットやコンピューターのおかげで、また観客のみなさんと繋がることができるようになりました。今回のクラウドファンディングは、僕が初めて世界に向けて発信するプロジェクトです。この「ヘンリー・フール三部作」BOXセットが成功することで、他の作品も同じようにお届けできるチャンスが拓けます。ご支援よろしくお願いします!
※取材・文:村山章
ALL PHOTOS COPYRIGHTED BY POSSIBLE FILMS, LLC
【クラウドファンディング応援企画 ハル・ハートリー監督作緊急上映会】
2017年7月5日、6日:新橋TCC試写室 7月9日:人形町Base KOM
上映作品:『アンビリーバブル・トゥルース』『シンプルメン』『愛・アマチュア』『はなしかわって』
主催:ShortCuts
※本上映会は終了しております。