消えた16mmフィルム
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『消えた16mmフィルム』という邦題は、間違ってはいないが、かなり作品をミスリードしている。確かに本作は“消えた16mmフィルム”の謎にまつわる映画だが、むしろ観た人に与える印象はある種の“青春映画”ではないか。原題は「Shirkers(シャーカーズ)」。この世に存在するはずだった映画のタイトルだ。
本作の監督を務めたサンディ・タンは、シンガポール出身で、現在はアメリカを拠点に映画評論家、作家として活躍している人物。多感なティーンエイジャーだった90年代初頭には、映画や音楽のポップカルチャーに夢中になり、世界各地にファンを持つ同人誌を作り、開校したばかりの映画学校で映画作りを学ぶなど、シンガポールにおけるサブカル女子の魁(さきがけ)だった。そしてカリスマ性のある映画学校の教師ジョージ・カルドナに後押しされて、自らが脚本を書き主演を務める自主映画「Shirkers」の制作に着手する。幼なじみや学校の仲間も巻き込み、監督はカルドナが務めることになった。ところが撮影が終了すると、撮影済みのフィルムがすべて持ち去られるという予期せぬ事態が起きる。そしてフィルムと一緒に師匠であるはずのカルドナも失踪してしまい、サンディたちの青春の証は永遠に失われてしまったのだ……。
サンディが当時の一件をドキュメンタリーとして語ろうと決めたきっかけは、20年後にカルドナの妻から連絡があったこと。サンディは、カルドナが亡くなったこと、遺品の中に「Shirkers」のフィルムがあったことを知らされる。そして返却された撮影素材を観たサンディは、初めて当時の記憶と向かい合い、一体何が起こったのかを検証しようと決意するのである。
完成したドキュメンタリーは、とても多層的な作品になった。サンディと親友たちの友情物語であり、90年代初頭のシンガポールを夢の中で再訪するようなイメージの奔流であり、そして謎と矛盾に満ちたジョージ・カルドナという人物の調査記録でもある。ジョージ・カルドナの不可解な行動原理は、事件の異常性では右に出る者のない怪作ドキュメンタリー『くすぐり』を思い出すほどで、彼の生涯が映画化されたとしても驚きはしない。見方が卑近になるが、「若い才能にすり寄る訳知り顔な年長者」という自分だってたやすく落ちそうな危ない落とし穴を象徴する人物だと考えると、その心の闇が垣間見えるような気がしなくもない。観る人によってはカルドナはただのクズ中年でしかないだろうが、ある人にとっては心の奥に押し込めているグレーな感情をあぶり出す触媒のような存在にも思えてくる。
しかし筆者にとって、本作の真価はカルドナにまつわる謎解きにはない。サンディ・タンは、がむしゃらで自分を無根拠に信じていた青春の日々から、失意と諦念を乗り越えて大人になった自分を受け入れるまでの心の旅を、自分と親友二人の女三人の物語として描き出しているのだ。形式はドキュメンタリーだが、甘酸っぱくて切なくて、同時に恥ずかしくて死にたくなるような青春との距離感をみごとに描いた大河ドラマにもなっているのである。
正直、サブカルにハマった少女たちがこじらせた自意識を炸裂させた「Shirkers」が完成していたとしても、自分が観客として夢中になれた自信はない。しかし20年の歳月とサンディという主人公の人生の蓄積によって、「Shirkers」は誰の記憶をも刺激するタイムカプセルとして生まれ変わった。ドキュメンタリーにも様々なタイプとアプローチがあるが、これほどダイレクトに胸の痛みを突いてくる作品に出会える機会は、滅多にないように思えるのである。
※Netflixオリジナル映画「消えた16mmフィルム」独占配信中
【予告編】
【視聴リンク】
https://www.netflix.com/title/80241061