火花
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『南極料理人』『キツツキと雨』『横道世之介』『滝を見に行く』『モヒカン故郷に帰る』と着々と作品を重ねてきた沖田修一。希少な「外れ知らず」監督として熱狂的な支持者を持つ沖田修一の参加は、自分の中で『火花』に興味を抱く最大のポイントだった。
【監督ごとにテイストが変わる!映像もノリも監督次第】
フタを開けてみれば、総監督も務める廣木隆一を筆頭に、白石和彌、沖田修一、久万真路、毛利安孝と5人の監督がそれぞれに担当回を演出。1話、9話、10話(最終話)で最初と最後を締めた廣木監督がシリーズのテイストを決定するのかと思いこんでいたのだが、白石監督の3話を観た時に「おや?」と思った。監督が違えば印象が変わるのは当然だが、明らかに映像のスタイルからして変化していたからだ。
『凶悪』の白石和彌監督の担当回(3、4話)の印象は「意外に手堅い」である。1、2話で特徴的だった手持ちカメラや長回しはなりを潜め、安定したカメラでカットを割って編集するオーソドックスな作り。どこか陰影を帯びた空気感と、主張の強い見せ方が本ドラマのスタイルだと思っていたものが、かなりの方向転換だ。
【“お笑い”を描く作品にまつわる陰鬱さ】
お笑いの世界を描けば描くほど、暗く、陰惨なムードになる、というケースは実は少なくない。古くはダスティン・ホフマン主演の『レニー・ブルース』やデ・ニーロ&スコセッシの『キング・オブ・コメディ』。ジム・キャリーがアンディ・カウフマンを熱演した『マン・オン・ザ・ムーン』は可笑しさより切なさが前にくるし、アダム・サンドラー、セス・ローゲン、ジャド・アパトーが組んだ『素敵な人生の終わり方』に純然たるコメディを期待していた人は唖然としただろう。
『火花』もまた暗さが付きまとう。序盤は売れない閉塞感が、終盤は終焉へと向かうほろ苦さが根底にある。監督陣の大半も、あくまでも「お笑い」の世界を背景にした“青春ドラマ”としてアプローチしている。特に廣木監督が手掛けた最後の漫才シーンなんて、完全に泣きのメロドラマとして演出されている。笑いと感動、二兎を追うよりもひとつに絞る、とまで監督たちが思い切ったかどうかは知らないが、全体のトーンは軽妙というよりもシリアス。『火花』がお笑いバラエティでなくストーリーのあるドラマ作品である以上、避けられない結論だったのかも知れない。
【沖田監督が真正面から挑んだ“漫才”の本気】
さて、沖田監督が手掛けた5、6話の話である。前述のように、序盤は不遇の下積み時代、終盤は名声の残り香を噛みしめるという物語の構成上、主人公たちの「成功編」と呼ぶべき5、6話はもっとも“笑い”に接近できるエピソードであり、また、そこに沖田監督の持ち味である「どんなシチュエーションでもユーモアを見出す」資質がみごとにハマった。
まず沖田監督は、主人公たちが全霊を注ぎ込んでいる「漫才」を、お笑い番組のテレビ放送とは違う形で表現しようとしている。5話が「優勝を競うお笑いライブイベント」、6話が主人公コンビの初の単独ライブを描いているという構成上の必然もあっただろうが、特に5話における「漫才の面白さが物語のカタルシスとリンクする」興奮はこのドラマシリーズの白眉ではないだろうか。
例えばミュージシャンを目指す若者を描く映画があったとして、曲が魅力的でなかったり、楽器の演奏が明らかにおぼつかなかったり、歌声が付け焼刃であったるすることは許されない(逆に演奏は聴かせないという裏技を使った作品もあるが)。つまり『火花』において、主人公たちが“本当に面白いネタ”をやってのける漫才師なのだと証明する役割を果たすのが5話なのだ。
難しいのは、ストーリーの流れを踏まえた上で「絶対に面白い漫才」でなければいけないということ。段取りでいうなら、まず主人公のコンビ「スパークス」が実力を発揮して笑いを取り、先輩の「あほんだら」がさらに格上であることを見せつける。
間に挟まる芸人たちのネタが中途半端では、劇中のライブイベント自体が嘘くさく見えてしまうし、かといってドラマの中でネタ見せ番組やスポーツ中継のように全芸人のネタを見せるわけにもいかない。全体のバランスがひとつ狂えば、エピソードがまるごと破綻してしまう恐ろしい回なのだ。沖田監督がどう処理してみせたのかは実際にご覧いただくのが最善として、「スパークス」と「あほんだら」のネタをまるごと放り込み、エピソードの流れを損なうことなく盛り上げてみせた手腕はただごとではない。
【日常と隣り合わせにある“可笑しさ”を見つめる】
そしてもうひとつ沖田監督の大きな功績だと感じたのが、悲喜こもごもがないまぜの日常と隣り合わせにある“可笑しさ”を随所に仕込んでみせたこと。真樹の新恋人(沖田作品の常連、黒田大輔)と同じ部屋に居合わせてしまい、バツが悪ければ悪いほど可笑しくなってしまう。ああいった笑いのツボを、ほかのエピソードではセリフや役者の演技によって説明しているようにも感じたが、このエピソードでは本当にシチュエーションがまるごと可笑しいのである。
神社のバイトの女の子がずっと何かを食べているというギャグも、単に小ネタを仕込ませた以上の意味がある。この物語において、笑いの種はそこかしこに存在していなければいけない。大袈裟に言うなら、神羅万象に宿る“可笑しさ”をどれだけ自分のものにできるかというスレスレの勝負を主人公たちはしているのであり、いくら本人たちが熱く語り合ってもそれはただの言葉でしかない。映像に置き換えて表現するために、沖田監督の卓越したオモシロ眼は必要不可欠だったと感じた。
沖田監督が『火花』でやったことはシリーズの中では特異であり、全体の整合性という意味でプラスだったかはわからない。ただ、監督ごとに個性が際立つというこの企画をより魅力的にしたことは間違いなく、また、監督が作品をぐぐいと自分に引き寄せたことで、『火花』を「“お笑い”の世界を扱ったドラマ」から、「映像というフィールドで堂々と“お笑い”をやってのけたドラマ」に引き上げたのだと思っている。
【余談:関西人オールスターのキャスティングの謎】
最後にもう一件だけ。いささか奇妙だった点を書き添えたい。主演の林遣都と浪岡一喜はネイティブな関西弁を操る関西人だが、ほかにも多くの関西人がキャスティングされている。「スパークス」の相方を演じた「井下好井」の好井まさおと「あほんだら」の片割れ役の村田秀亮(とろサーモン)は本職の関西芸人だ。
ところが、だ。なぜか標準語の役柄でもやたらと関西人がキャスティングされているのだ。例えば渡辺大知、徳永えり、小林薫、山本彩、三浦誠己。ちゃんと関西弁の役をアテられている高橋メアリージュンなどは珍しい例外なのである。
関西人は、映画やドラマの関西弁の正確性に過敏に反応する面倒な生き物であるとよく言われるが、それは実際のところ間違っていない。だからこそ関西出身である筆者は関西人ばかりのキャスティングに「おお!」と期待が高まったのだが、ネイティブスピーカーが活躍する場は不思議となかった。もちろん原作ありきで関西人の登場人物がそんなにたくさんいない、というのも確かなのだけれど、じゃあなぜ関西人を大勢集めたのか、それともただの偶然だったのか? いまだに気になってしょうがない謎である。
内容・あらすじ
お笑いコンビ・スパークスの徳永は、営業先の熱海で先輩芸人・神谷と出会い、師匠として仰ぐようになる。 相方の山下とともに芸人として売れるべく漫才に取り組む一方で、神谷との関係のバランスが次第に崩れてゆき…。